昭和48年01月18日 月次祭



 信心する者は、何事にも信心になれよと。信心になると言う事は、どう言う様な事だろうかと。私は親切になると言う事だと思うですね。信心する者は何事にも親切になれよと言う事。親切というのは親が子を思う切なる心と。親が子を思う切なる心。ですから信心とは、親だけが思うというのじゃなく、子供もまた親が子を思う切なる心を持って思う。それが親切なんです。信心する者は何事のにも親切になれよと。
 只今月次祭から月次祭までのあの行事のことの事が、マイクで放送されておりましたですね。何時もあってるどこどこの共励会と、という様な事ならまああれでいいでしょう。もう大体、皆さんが知っているのですから。通知をするというからには、連絡を取るというからには、又はお知らせをするというからには、皆にお知らせを納得して貰う、聞いて分かって貰うと言う事が目的なんです。
 今日の私今聞かせて頂きながら、まぁなんと不親切な放送じゃろうかとこう思うた。何時いつはどこどこの共励会、何時も分かってるとこなら良い。けれども確か今のあれには、南八幡教会の青年会と、合楽の青年会が合同で、この合楽教会を会場として、信心の研修会をやろうと言う事が知らせておられました。これはいうならば、特別のお知らせである。だから特別のお知らせなら、特別のお知らせらしくです。
 八幡教会からバス一台を借り切って中学生、三年生から、中学校からそれに参加する事言う事だそうです今度は。ですからその青年会の方たちが、バス一台でやってくる。と言うのですから相当矢張り御比礼を頂いた教会ですね。青年会だけでバス一台でやって来ると言うのですから。それを合楽の青年会のみなさんと一緒に、共同の信心研修をやろう。それには、講師に平田しげきち氏がお見えられる。
 八幡教会の青年会の方達も、先生を初めそういう熱意を示しておられるのであるから、わざわざ合楽まで何のために見えるか。合楽の教会の御比礼にも浴しよう。合楽の青年会の信心の方たちとの会合を、いうならば楽しみにして見えるわけです。それにほんならこちらの方では、まあ少しばっかりの人たちが集まっとったち言うたら、それこそがっかりでしょう。しかも平田しげきちつぁんがお見えられてのお話である。最後に私の話をしてくれと言う事である。
 と言う様な事をです私はかいつまんででも良いから、こう言う事がこういう計画の下にです行われるから、皆さんも振るってどうぞお話を聞きに来て下さい。青年会の方達は勿論是に一つ参集して見えます様にと言う様な事が言われて初めて、親切じゃなかろうかと思う。八幡の青年会と合楽の青年会が、何日の日にここで研修があります。そすともう他の者は、そりゃもう行かれんとかと思う者があるかも知れません。
 平田しげきちつぁんが見えられてのお話ですから、勿論青年の方は全部参集する位をもっていうならば、迎える心構えとわざわざ北九州あたりからでも、一教会から言うなら貸し切りバスを一台借り切って、四五十名の方が見えようと言うのですから。こちらもその心意気を持ってしなければならんなら、そういう私は説明もさせて頂くのが、親切だと思う。もう一つ月次祭から、月次祭あれの、あれがあっておりました。マルショウ育成会が、ここを会場にしてあります。
 それは何日の日ですか。それは二十二日、それから青年会のほうは一日なら続き、二十二日、二十三日ね、二十二日の日はマルショウ育成会ですから、子供を少年少女会に入れておる人だけの話し合いのような風に受けんとも限らない。是は全信者全部がです。そのマルショウ育成と言う事に力を注ごうというのです。そのお父さんとお母さんだけが、やって下さいという事じゃないのです。
 だから各教会教会からは、もう何名お参りをさして貰うという連絡通知までこうあってるのです。そういう例えば計画の下に、合楽教会をしかも会場としておかげを頂かなければならない。それに全部の方に食事を上げにゃいけない。是は勿論なんか百円ずつのお金を頂く訳です。皆さんもお参りしたらやっぱ百円ずつ納めて、その昼食なら昼食を頂かなければならない。
 そういう様な事位もです私は説明して、皆さんに聞いて貰うと言う事がです。そしてどうぞ皆さんその日は、何をおいてもお参りして下さいよ、お話を聞きに来て下さいよ位は、言わせて頂いて初めて親切ではなかろうかと思うのです。ただ通り一遍に事務的なことをちらっとこう、それもただ何々研修会があります。何々に合同信心研修会があります。何日と何日ですと言うただけではね、あまりにも親切がなさ過ぎる。
 信心させて頂く者は、何事にも信心になれよと言う事は、私は今日は信心する者は、何事にも親切になれよという事だと、言う事を今のあの放送を聞きながら、それを思うたんです。だからその事を今日私は聞いて頂こうと思うんです。親切とは親が子を思う切なる心。例えば家出をしておる子供があるとする。親はもう本当にどこでどういう風にして過ごしておるやら、それこそ夜中にがたっと表の戸が音をしてでも。
 いやあれが帰って来たのではなかろうかと思うて、表の戸口を開けげ行くぐらいな気持ちが親にはあるという。親と言うのは、漢字が木の上に立つと書いてある。そして見ると書いてある。言うなら高いところに登って木の上に登って、子供が帰ってだん来とらんじゃろうかと、毎日帰ってこない子供を、表へ迎えに出ておる様なその切なる心が、親という字だと。そういう心を切に使うということが信心だということ。親が子を思う切なる心。親切、信心する者は何事にも親切になれよ。
 信心する者は何事にも信心になれと言う事は、そういう事なんだ。そこで親だけが思うのではない。子供もまたその切なる心を持って思うと言う事が、信心だと言う事。切実心切に思う。今日ある方がこういうお届けをされた。ある結婚の相手の人がある。所が相手の人があまり関心を示さない。こちらの思いは募るばかり。どうでもやはりあの人と結婚したい。神様にお願いをする。最近言われる五つの願いと、例えば今朝から頂くご理解を頂いておっても所謂公儀名分、所謂筋金が通らなければいけない。
 私が毎朝毎朝ご神前で願わせて頂くと言う事はです。どうぞ合楽教会に大発展の大みかげを頂かせて下さい、沢山の人が集まって助かるおかげを頂かせて下さい。教会がもう大発展を遂げまいりますようにお願いを致します。その大発展は道の比礼の発展、道の発展に繋がり。世界中の氏子が助かっていくと言う事に繋がり、和賀心時代を創っていくと言う事につながる事の為に、合楽教会が大発展を遂げなければならんのであるという願い。どうぞ教会が繁盛します様にというばっかりであっては、是は可笑しい。
 けれどもその発展は、例えば皆さんが、商売大繁盛を願われるならばです。どうぞ合楽教会の繁盛に繋がる事の為に、あなたのお店が繁盛すると言うのですから、どんなに願うても是は公儀名分、筋金がちゃっと立っておる。私の我情我欲のために繁盛さして下さいと言うのじゃない。合楽教会発展のために、私のお店の繁盛が日に日に日勝り、月勝りに繁盛のおかげを頂かせて下さい。
 しかもそれは繰り返し繰り返し願うのだ。その合楽教会の発展に繋がるその事が、私がそれを又がっちり受け止めて、道の発展の為に、世界真の平和の事に繋がる事の為に、合楽教会が大繁盛のおかげを頂かなければならないと言うのでございますから。そういうふうに、この頃は説かれますのに、私個人が誰さんと結婚をしたい。あの人とどうでも結婚をしたいと言うことだけをです、願うというのはなんか願い苦しい心苦しい。それでも心は止むに止まれん、そういう思いがあるとこういうのです。
 だから私はその方に申しました。だからその筋を通しなさいち。これなら神様が聞きなさらん筈がないというような筋を通しなさい。その方と結婚させて頂いたら、こういう有難い御用をさせて頂く事のために、あの人でなからなければならんのでございます。同時に申しました。孝は百行の元と言う事と言うのは、孝行の孝親孝行の孝。百行というのは百の行い。もう全てのこと全ての事のおかげの元というのは、孝行だという事。これはシナの偉い人の言葉なんです。その事を私は聞いて貰うた。
 孝は百行の元と言うから、私があの人と結婚すると言う事が親が喜び、親が安心してくれる。私はその人が例えば親に対して、芯からの孝行を本当に孝行なんですけれども、本当に孝行ならば、あんなに親にズゲズゲ言う様な事はない筈なんだ。親を時には泣かせることがある。親を困らせる様な事がある。そこでです親が子を思う切なる心を持って、子供がまた親を思う、その切実心を持ってです、親に心配を掛ける様な事は、親に喜んで貰うと言う事には、一心を貫かせて頂くけれども。
 あんたこの事だけを、まずあんたの願いの一つの条件として、親に不愉快な思いをさせたり、親に口答えをしたり、親を泣かせるような事だけは、金輪際いたしませんから、と言う事になってきたら、筋金が通るじゃないか。私はそれを説かせて頂きよったら、自分自身が涙がぼろぼろ流れてきた。本当にねとくに親不孝するという様な人は、そんなにあるもんじゃないけれども、芯から切実な思いで親に孝行をするという心の人は少ない。と言うて、私は月のうちの四回だけ両親の普通はもう全然。
 本当に行く暇がないのです、両親のところへ。だから月次祭の日だけは、私がいつも一人食事をする人がおりませんから、必ず食事をあちらへ運ばせます。それで両親と一緒に食事をゆっくりさせて貰う。両親も心待ちにしておる。両親も喜ぶごとあるけれどもね、本当に嬉しいのはこちらです。親と一緒に四方山話をさせて頂きながらです。お食事を頂いたり、お神酒を頂いたりしておるという事がです、親も喜ぶなら子供もまた嬉しい事なんだからね。だから本当に今親が健在である時にです。
 その親に親孝行しとうてたまらんという心に、ならせて頂きますという条件で、あんたが誰々さんと結婚したいという、その願いをその修行のためにでも親に孝行をする。孝は百行の元というのであるから。孝行の出来ない人がどういう行を沢山した所でです。それは本当の事じゃない、その根本元になるのだから。親が子を思う切実心な心を持って、子供もまた親を切実に思うと言う事が大事な事だよ。そうするとあんたの願いは、無理な願いと言う事にはならないじゃないだろうか筋金が通る。
 今までは合楽で願うと言う事でも、さあ商売大繁盛健康のおかげとだけは、願い難いというのが合楽の何十年間の信心であった。けども最近ではもう願わなければならんと言われておる。それはね真実真の御用が出来ます事の為に。真実神様の願い所謂神願成就の事の為に、健康でもなからなければならない、家庭が円満でもなからなければならない。子孫繁盛家繁盛は、愈々もって頂かなければならない事に成って来た。
 ですから是は筋金が通っとる。教会の大発展を願う。私は是を毎朝願うこの五つの願いが始まって是は切実に願う。それはね合楽教会の発展が、本当に金光教の発展のそれに繋がることのために。世界に和賀心時代を創るといわれる、その和賀心を創って行く事のための御用の端にでも使うて頂く、その事のために、合楽教会が大発展を遂げなければならないから願うのである。今日四時の御祈念をさせて頂こうと思いよる時に、ある方がお参りしてきた。中々立派な風采のまあやり手風のご夫人でした。
 実は先生私はどこどこ教会の信者でございます。今日は合楽の先生に、どうでもお話を聞いて貰うて、私の行くべき道をです示して頂きたいと思う。親の代からの信心である。八幡教会でおかげを頂いて、教徒の列に加えて貰う程しの信心。それが博多に今おります。ほれで博多に移って参りましたから、こちらの方の教会に御霊様もお移し申し上げて、まあ打ち込んで信心しておりました所が、その教会にちょっとした係わり合いが出来て、まあ参ろうごとなかごとなったち言う訳ですです。
 どういう事かと言うと。そこは今ご造営があっておる。それはもう九州でも指折り数えられるほどしに御比礼を頂いておる教会です。私はある意味で聞いて驚いた。私の方で今度五階建ての、なんかアパートの様な物を建てるお届けをした。所が先生が言われる事は、○○さんその事は一時ばっかりほうからかして、一千万円ばっかりその金ば教会の方へ廻してくれないかと言われた。
 だからまあ先生の仰る事だからと思うて、一も二もなしに建築の方自分の方を止めて、一千万教会に融通した。おかげで桧材なんかを買い込んで大変安く買えた。それからまたまた五百万言われた。合計千五百万円融通させて頂いております。所がその金の出所が税務署の知る所となって、追及を受ける事になった。私も困る所に追い込まれ、教会の先生も、愈々困った所に追い込まれる事になられた。
 それで結局親子でも金銭は他人と言うが、そう信心でしとったつもりだけれども、先生といざこざが起こってきた。そういういざこざの中に子供達夫婦が、お母さんがあんまり信心信心と言うからと言う様な事になって来た。そしたら教会の先生が怒られてから、そげな事言う様な嫁ごは、追い出さんのち言うちから、とうとう追い出さっしゃった。息子さんな今、とうとう追い出されとる。信心の事をとやこう言うたから。私も少し知っている先生ですけれども。そんな先生とは思わなかった。けれども是は片口聞いて問答するなと言うから、その方の言い分のことだけですから、そりゃほんとの事は分からん。
 そしたら私がお知らせを頂くのがです、仏の顔も三度というけれどもです、あんたの場合はその反対だとこう言う。仏の顔も三度というけれども、あんたの場合はその反対だと。例えば先生から二度三度と、例えば無理を言われてもです。もうそのあんた言うが、親先生と言う先生の顔を、立て抜きなさいと言う御理解じゃった。所がとてもそれが出来るごとあるなら、ここにゃ参ってこんち言う風じゃった。
 私は丁度その方が見える時に、名前を申し上げませんけども、○○とその名前を頂いた。○○恵と頂いた。まぁ例えて言うならば、大和さんで大和恵とこう頂いた。その大和というのがその先生の名前らしい。それを私は手紙の裏に書いてです。○○恵と書いてから、私もこれはどういう事だろうかと思って、書いてこう置いとった所へその方が参ってきた。そして話を聞かせて頂きよったら、その親先生の名前が○○何々じゃ。
 そりゃ先生の名前は違うらしいけど恵というのは、そこの長女の方の名前が○○恵と言うとじゃった。そしたらですね、それこそ顔色を変えてまた座り直して、お話を頂かれました。あんたが今そう言うておるけれどもです。仏の顔も三度と言うけれどもです。あんたの場合はそれを反対に、まぁ先生を仏様というなら、仏様のほうから言うのが、仏の顔も三度じゃけれども。
 信者のほう側からですもう一度辛抱してと言う事なんです。もう一度辛抱して、その親先生の顔を立て抜かせて頂きなさい。その先生は今はまだお若いから、お若いと言うてももう五十幾つ位でしょう。位だから、例えばほんなら信者に金を借りられたと言った様な事は、私達としては考えられない事なんだけれども。この方は必ず恵まれる方なんだ必ずおかげを頂く方なんだ。だからあなたは度々の事ながら、本当に恐れ入ってしもうてお取次させて頂きました。
 そんならもう一辺の親先生の顔を立て抜かせて頂いて、信心させて頂きますというて帰った。だから親という者はそのようなもんだ。親がどんなに理不尽なことを言うても。帰って子供のほうが、切に思いよるのだけれどもです。もう一度ならず二度までも、そういう事になったけれどどもです。それでもです子供の例えば、それであっても親が理不尽な事を言うても、それを親が子を思う切実な心、言うなら親切な心を以って、接していくのが信心だと言う事が分かるでしょう。
 先日十六日の日田の共励会。正月のちょっと印をしたいから、親先生も是非と言う事で御座いましたから参りました。時間を早くと言う事で六時頃参りました。それで何時もの八時半頃から行われる、その時間をある料亭で夕食を取らせて貰った。そこでお互い爪楊枝がほいで私は、爪楊枝をみな配りながら言うた。これが今晩の御理解ばい銘々の。もうそれは本当にこれは私を中心にして、そういう場でですねもう一人一人が、その爪楊枝のあれにこう付いてでしょう。
 おみくじみたいのがそれを開かせて頂いて、銘々の信心の例えば、久富繁雄さんあたりの場合なんかは、朝言うておられた事、しておられた事、奥さんとの間に、その事がずっと書いてあった。もう是は皆がそうでした。私のを開かせて頂いた。そしたらこういうことが書いてあった。一月十六日日田のこつこつ茶屋ち言う所じゃった。日田のこつこつ茶屋にてと書いてある。思っているだけ思うて貰う、無理な願いじゃないつもり、と言うこれは都都逸の文句である。
 思っているだけ思うて貰う、無理な願いじゃないつもりと。私が皆さんに頼む様に言うておる事は、決して無理な願いではないと思う。けれども聞こうとしない。私が切に思う。そんなら皆さんも切に思う。その切に思う心と切に思う心が、交流する時が信心なんだ。先生があげん思うとる事は知っとるばってんと言う位な事。それでは本当の信心が育つ筈はありません。
 今朝からも繰り返し頂いておりますように。五つの願いをさせて貰う。どうぞ体の丈夫を願わしてもらう。それが健康であるというだけではなぁにもならんと。健康で只働いとると言うだけでもそれは大した事はない。健康で働かせて頂いて、あなたの思いに添わせて頂く事の為の健康じゃなからにゃいけんと言うのですから。家庭円満はぁもうこっとりとも言いません。
 私は昨日、久富先生にその事を話した。おかげを頂いておるというお話をされるから。久富先生そのおかげだけじゃいかんよち。あんただけが幾ら有難かったっちゃ、家内が有難いと思わなかったら、本当は有難い事じゃないよ。ただ仲がよかと言うだけではなくて、拝み合うて行くと言う事が、お道の信心でいう、家庭に不和の無きが元なりと言うのは、どうぞ家庭円満のおかげを頂かせて下さいと言う事は。
 家庭中の者が拝み合うて行くと言う事なんだ。主人が有難いなぁ本当に有難い事ですねと、家内が言うた時が本当の信心の家庭であり円満な姿である。してみると久富先生まぁだまぁだと言うた事でした。それは喧嘩したり言い争いが有ったりする様な事であっても、こりゃ愈々つまりません。けれども仲がよいと言うだけじゃいかん。あんたが有難いと思うなら、家内もやっぱその半分位はほんなこて有難かですねと言えれる様な。
 それがいま合楽で言われておる所の、嫌が上にも願わなければならない、家庭円満の大みかげであり。信心は家庭に不和の無きが元と言うのは、そういう願いをして行く事なんだ。子孫繁盛家繁盛の上においてもそうなんだ。その繁盛のおかげを頂くと言う事に、そのおかげを頂く事によってです。真実のお役に立たせて貰う事の出来る事の為になんだ。神願成就の事ために、御用の端にでも使うて頂く事の為に。
 子孫繁盛家繁盛なのだ。そこで切実なそういう願いというものがです。なされていく時に有難い。私がその結婚の誰々さんと結婚をしたいと言う人に対して、私が申しました様にです。筋金が通ればもう願うても願うても良いのであり、いや願う事をもって神様は喜びとなさるのだ。信心する者は何事にも信心になれよ。信心する者は何事にも親切になれよということだと、今日はそう言う事を聞いて頂いた。
 親切とは親が子を思う切なる心であるとするならば。ほんなら子供もまた親が子を思う切なる切実心をもって、孝は百行の元であるという、そこの所を分からせて貰うて、おかげを頂いていかなければならない。そしてその○○教会の仏の顔も三度というのがです。親からではない子供の方から反対に、親がどういう理不尽な事を言うてもです。親の顔を立て抜きなさいと言う、それが信心だと言う事を、今日は聞いて頂きましたですね、
   どうぞ。